みんなの日記帳

問わず語り1  No.366
1978年、キャンディーズが普通の女の子に戻った直後、オイラは仙台で学生生活を始めた。
頭が悪い上に努力もしないので、国公立大に合格することができず、唯一合格した私立大学だ。水飲み百姓のせがれが無理をして入学金などを払ってもらったので、その後の仕送りの少なさなどに贅沢は言えない。
お金がないゆえに寮費2千円の学生寮に入寮することになった。父が運転する親戚に借りた軽トラには、布団とわずかの衣類机のほかには、スカイセンサー5800とアグネスチャンの著作一冊だけだった。
新寺小路から東9番町にをり、、酒屋の前をさらに脇に曲がったところ、周囲はお寺ばかり。その中にたつおんぼろの木造建築。二階建ての屋根の上に立つ十字架が、周りのお墓の風景とはアマリにもアンバランスであった。
荷物を下ろし、父が舎監先生に挨拶をする。舎監先生は「お父さんもご心配でしょうが、こんな古い建物でも未だかつて凍死者は出ていませんから」とおっしゃっていた。
父がなにを言うこともなく帰った後、南寮下4号という部屋に一人残され、木枠の薄汚れたガラスの窓越しに見えるのはお墓ばかり。かアマリの静かさに「こりゃ、とんでもないところに来たかな。かえろうか。」と思ったものであった。まあ、それも一瞬、夕方になり、同室の佐藤君が兄さんに送られ、入室すると寂しさも忘れた。
彼はオイラと同じ経済学部経済学科、秋田県の進学校出身で野球部。甲子園出場経験があり、机の上にはいわゆる甲子園の土を飾ってあった。スポーツ推薦の彼はすでに一月も前から野球部の練習に参加しており、同じ寮に入った野球部の仲間を紹介してくれた。おかげでその日のうちに知り合いがいっぱいで来、心細さもなくなったのだ。
寮の食事は毎日、朝夕2回。ご飯は丼飯1杯と決まっており、おかわりはできない。これは戦後からの伝統で、その頃は形式化されており、自分の食べたい量のご飯を盛り付けるので、ひもじい思いをすることはなかった。1万5千円というわずかな食費を寮のおじさんおばさん夫妻が、工夫をして、栄養とボリュームのある食じを提供してくれた。しかし、時々は、納豆と味噌汁のような朝食の時もあり、それまで納豆をご飯の上にかけて食べることのできなかったオイラを併行させた。
お風呂は月水金の3回のみで、それまで毎日の入浴を日課としていたので困った。ただ、合間の日に銭湯に通ったのは1回だけで面倒くさくなり、週3会で平気になったのだ。
ちなみにこの寮は、仙台駅東口の再開発で取り壊される予定だったが、計画が遅れ、おいら達が最後の良性として1年間だけ住むことになったものだ。建物は食堂や礼拝堂がある本館と南中、北の3つの居住棟があるが、北寮は使われておらず、南と中の建物24室に48人の汗臭い連中が住んでいたのだ。また、オイラの南寮下4号という部屋に幽霊が出るという話は、卒業してからOB会で聞いた。
でも、入寮仕立ての頃から北寮には化け物が出るので、閉鎖されたとかの噂もあったし、ささやかな怪奇現象はしょっちゅう起こる寮で会った。
その寮でお馬鹿な連中がお馬鹿な青春生活を送るのだ。


くじらベーコン
2018/02/10

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