みんなの日記帳

問わず語り10  No.375
1970年代の末、周りがお墓ばかりのおんぼろ学生寮。48人の貧乏学生が集まっている。しかし、いくら貧乏でもひもじい思いはすることがなかった。
少ない予算の中で、おじさん、おばさんが工夫をして朝と晩、腹一杯食わせてくれた。また、誰かの実家から何かしらの食べ物が送られてくることもあった。そんなときは、一人で食べるのではなく、仲のよい人たちに分配する。というよりは仲のよい連中が勝手に食べてしまう。おいらの実家からリンゴがおくられてきたときなど、おいらが一個しか食べていないのにリンゴ箱がからになっていた。オイラも人におくられてきた桃などを食べていたのだから文句は言えないのだ。
話は脱線するのだが、当時はまだ宅急便のような宅配便は存在しない。郵便小荷物か国鉄のチッキを使うのが当たり前だった。これは送り主が最寄りの駅まで荷物を持っていき、受け取り主が最寄りの駅からの連絡をもとに荷物を取りに行くというシステムだ。普通、到着駅からの連絡は葉書で、それを持って受け取りに行くのだから発送から受け取りまで、最低5日から1週間かかっていた。当然クール便なども存在せず、中身が腐っていたなどということも日常茶飯事だったのだ。ヤマトがなければあまぞんも商売はできなかっただろう。
食べ物の話しに戻るが、うちの寮では帰るのが夕食に間に合わない場合に事前に頼んでおけば、どんぶりにご飯を盛り、その上におかずを全部のっけた通称「弁当」というものを作ってもらい、食堂の入り口に置いておいてもらうことができた。同室の硬式野球部佐藤君は、宮城沖地震の回に書いたとおり部費を稼ぐため、深夜までアルバイトをしていた。したがって、彼は夕食に間に合わず、弁当を作ってもらっていることが多かった。しかし、夏休み以降はバイト先がおそば屋さんに変わったため、まかない食を食べてくることが増え、弁当を食べなくなった。それもあって、おいらは夜遅くお腹がすくと佐藤君の弁当をしばしば食べていたのだ。
腹一杯になり、満足して寝ているところに佐藤君が午前2時過ぎに帰ってくる。そしてオイラの体を揺すりを言うのだ「起きろーーー。みやげをもってきたぞーーー」 ミルと高級な蕎麦と大量の海老の天ぷら。「さっき、あなたの分の弁当を食べたところだから腹は減っていない」と言っても「せっかくもらって帰ってきたのだから食べろ」と言う。その時によって違ったが、多いと蕎麦が3人前と海老天が7〜8ホン。いくら若かったとは言え、真夜中にこれはきつい。こんなことが度々あったので、大学入学時で80Kg近くあった体重が90Kgを超えた時期もあった。もともと高校入学時はほとんど同じ身長で60Kgほどの体重だったのだから30Kgクライフえたことになる。高校時代は往復20Kn自転車通学をしていたのが大学に入り、ほとんど運動をしなくなったのだから太るのは当たり前だった。食べるのには苦労しなくても太ってしまい、ジーンズなどがほとんど合わなくなり、オイラは着るものを買うお金などなく、苦労していた。
  
     
そういえば、寮のおじさん、おばさんが、大学の試験期間になるとみんなに夜食を出してくれた。午後11時頃領内におばさんの声で「夜食を準備しました。希望者は食堂に取りに来てください」と放送されるのだ。その声を聞くと一夜漬けで勉強している人もそうでない人も三々五々食堂の入り口で牛乳とパンだったり、焼き肉とおにぎりなど、その時出せる精一杯のものを出してくれるのだ。その心遣いに学生一同もうひと頑張りしようと悪あがきをするのであった。
おいらたちが1年間過ごした寮は、駅裏の再開発のため3月で閉鎖され、取り壊しになることが決まっていた。おじさんとおばさんは寮の食堂につながった住宅を出て、子供達と同居すると言うことであった。卒業後、職場の先輩が同じ寮の出身と言うことで、話を聞く機会があったのだが、それによるとおじさんおばさんの子供達はこの寮に隣接した住宅で育ち、代々の学生達と一緒に遊んでいたという。
おいらはおじさんおばさんの子供達をしらないし、子供達と言ってもオイラよりはだいぶ年上だったろうが、寮生とともに育つ子供達というのは想像しただけでわくわくする。そこにどんな物語があったのだろう。聞いてみたかった。

くじらベーコン
2018/04/08

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